近くの日光名所と歴史話

日光こぼれ話

深沙大王

勝道上人が日光入山の際、大谷川に足を止められた時に対岸に深沙大王が現れ助けてくれました。(詳しくは神橋のページ)深沙大王は、玄奘三蔵が旅の途中、砂漠で一滴の水を得ることができず、息絶えようとしている時、流砂の中より現れて護ったといわれています。深沙大王は、その奇異な姿に驚かされます。髪を逆立て、眼を見開き、顔の半分もあろうかと思われる大きな口を開け、物凄い形相で、普通では考えも付かないような、姿をしています。その姿で最も特徴的なところは、膝頭から象の顔が出ていることです。これは「象皮の面」といって、象の顔が付いた皮の半ズボンらしいのです。と言うことは、あの大きな象の顔がいとも簡単に、しかも半ズボン状態になるのだから恐れ入ります。次に特徴的なのは、ドクロを胸飾りとしていることがあげられます。このドクロを飾りとするのも大威徳明王・伊舎那天・降三世明王・軍荼利明王などと同じであることがわかりますが、いずれも仏教化される以前の姿を色濃く残しているものと考えることができます。深沙大王の場合ですと、七つのドクロを胸飾りとするのには、玄奘三蔵が七度生まれ代わった、それぞれの頭蓋骨であると伝えられています。


二荒山神社

私たち日本人の先祖は、天高くそびえ、雲、雨、雪、かみなりなどさまざまな自然現象を展開し、命のもとである大切な水を恵んでくれる高い山々に、おそれと尊敬の心を抱き、そこには神がいると信じ、自然に生まれたのが山岳信仰です。関東平野の北方にそびえる霊峰二荒山(男体山)も古くから、神のおられる山として、うやまわれてきました。今から約1200年前の奈良時代の末、二荒山に神霊を感じた勝道上人が、大谷川の北岸に四本竜寺を建て、延暦9年(790)に本宮神社を建てました。二荒山神社のはじまりです。また、勝道上人はさまざまな難行苦行を積み、天応2年(782)に二荒山初登頂(男体山初登頂)の大願を果たし、山頂に小さな祠をお祀りしました。これが奥宮です。 延暦3年(784)、二荒山中腹の中禅寺湖北岸に日光山権現(中宮祠)をまつり、ほぼ現在の形となりました。


慈眼堂

大猷院(徳川家光廟)から入っていき大猷院の上部に位置し家光の墓所はこの慈眼堂を向いています。自分の部下であるはずの天海の方に向けて自分の墓所を建てるとは何か有りそうに感じてしまいます。とにかく天海は謎の多い人物でお福(春日の局)登用の謎も絡め調べれば調べるほど何か有るなぁと思わせます。異論ですが、お福(春日の局)は家康の手が付いて家光の乳母ではなく本当の母だったのではないか・・・などどいう説もあります!(お江が本当の母のはずですが)また慈眼といえば明智光秀の菩提寺は慈眼寺である。天海が徳川家康にはじめて会ったのは慶長4年、(駿府政治録)によると、このとき2人はあたかも旧知の間柄のように親しく話し合ったとされる。またまた、初めて春日局と天海が会う場面で、春日局は天海に平伏し「お久しゅうございます」と言ったそうである。とすると二人は初対面ではなかったことになります。春日局と天海はどのような関係だったのでしょうか?ますます怪しい!!みなさん日光に調べに来て!面白いですよぉ~!!


勝道上人像

766年勝道上人32歳のとき大谷川の激流を神仏の加護​を受けて渡り(現在の神橋)山内地区に草葺きの小屋を建​て、毎朝、礼拝石に座り、二荒山(男体山)の霊峰を拝し​ておりました。ある日、いつものように霊峰を拝している​と、背後から紫の雲が立ち昇り悠々と大空に舞い上がって​東北方面に吸い込まれました。勝道上人はこの壮厳なる風​景に心を打たれ、その地点に急ぎました。その地点が、青​竜・白虎・朱雀・玄武の四神守護の霊地と感じ、この場所​にお堂を建て「紫雲立寺」と名づけたのが現在の「四本竜​寺」と伝えられています。1200年以上になる日光山の歴史のはじまりです。ちなみに現在の四本竜寺は、日光幼稚園です。見学できま​す!

神橋

勝道上人一行は、華厳の滝から流…

日光探訪-1-

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日光の自然

日光は歴史遺産だけでなく豊かな…


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